「取り残された人々を包摂する経済」への処方箋
- 『The Economics of Belonging』Martin Sandbu著
近年、欧米諸国では反グローバリズムやポピュリズムの台頭が顕著になっています。2016年の英国のEU離脱(Brexit)や米国でのトランプ大統領の選出は、戦後の自由主義的な秩序に対する重大な挑戦として捉えられています。なぜ、このような政治的分断が生じているのでしょうか。
Financial Times紙のコラムニストであるMartin Sandbuは、その根本的な原因を「経済的帰属意識の喪失」に見出しています。彼の著書『The Economics of Belonging』は、この問題の詳細な分析と、その解決策を提示した意欲的な著作です。
戦後秩序の三本柱と「帰属意識の終焉」
著者によれば、戦後の西洋社会は三つの柱によって支えられてきました:①自由民主主義、②社会的市場経済、③国際的な開放性です。この体制は、1970年代まで、大多数の人々に繁栄と社会的地位の向上をもたらしました。工場労働者でさえ、中産階級的な生活を享受できる「ブルーカラー貴族」と呼ばれました。
しかし、1970年代以降、技術革新による産業構造の変化が、この体制を根本から揺るがすことになります。特に以下の4つの変化が、特定の層を経済的に疎外することになりました:
低学歴労働者の価値低下:知識経済化により、単純労働の需要が激減しました。高度な認知能力や社会的スキルが求められる現代経済において、従来型の肉体労働や定型的な仕事の価値は著しく低下しています。
都市部への富の集中:知識集約型の経済活動は大都市に集中する傾向があり、地方経済との格差が拡大しています。かつての工業都市や炭鉱の町の多くが衰退し、そこに住む人々の経済的機会は著しく制限されています。
移動性の重要性増大:新しい経済は、場所に縛られない柔軟な人材を優遇します。しかし、地域社会への強い帰属意識や家族的な絆を持つ人々にとって、この要求は大きな負担となっています。
ジェンダー役割の変化:伝統的な「男性的」労働の価値低下は、特に教育水準の低い男性労働者のアイデンティティを脅かしています。
グローバリゼーションは「スケープゴート」
これらの問題の原因として、しばしばグローバリゼーションが非難されます。しかし著者は、これは誤った認識だと指摘します。実際の主因は技術革新と国内政策の失敗にあり、国境を閉ざすことは解決にならないと論じています。
例えば、製造業の雇用減少は、主に自動化による生産性向上の結果です。実際、アメリカの製造業生産高は過去最高水準にありますが、それを生み出すのに必要な労働力は大幅に減少しています。
包括的な解決策の提示
著者は、これらの問題に対する包括的な解決策として、以下のような政策パッケージを提案しています:
- マクロ経済政策の転換
- 「高圧経済」の維持:完全雇用を超えた需要創出を目指す
- 積極的な財政・金融政策の活用
特に景気後退期における迅速な政策対応
労働市場改革
- 最低賃金の大幅引き上げによる生産性向上の促進
- 職業訓練・教育への投資拡大
職業間の移動支援強化
金融システムの改革
- 債務依存からの脱却
- より安定的な金融システムの構築
地域金融の活性化
税制改革
- 純資産税の導入
- 多国籍企業への適切な課税
炭素税の導入と還付制度の確立
地域政策の刷新
- 衰退地域への戦略的投資
- 教育・研究機関の地方分散
- 地域の輸出力強化
新しい中道主義の確立へ
著者は、これらの政策は従来の左右の対立を超えた新しい中道主義の基盤となりうると主張します。純資産税は資本の効率的な利用を促し、ベーシックインカムは労働市場の柔軟性を高めます。これらの政策は、単なる再分配ではなく、経済全体の生産性向上にも貢献するのです。
また著者は、こうした改革は一括して実施されるべきだと強調します。なぜなら、個々の政策は相互に補完し合う関係にあり、部分的な実施では十分な効果が得られないからです。
結論:経済的包摂なくして政治的安定なし
本書の核心的なメッセージは、経済的包摂なくして政治的安定は望めないということです。著者は、1930年代にニューディール政策が政治的急進主義を防いだように、今日も経済的急進主義によって政治的穏健さを守る必要があると説きます。
現在の政治的分断は、経済システムが多くの人々を置き去りにしてきた結果です。その解決には、すべての人々が帰属意識を持てる新しい経済システムの構築が不可欠なのです。